気持ちよく晴れた11月4日(土)大槻あかねさんのトーク会がありました。あかねさんが用意されたプリントを見ながら、会場いっぱいのみなさんは小さい声ながら凜々しく話されるあかねさんのことばに頭と心を全開にして聞き入りました。
用意されたプリントからいくつかのことばを抜粋してご紹介します。
(絵本『あ』『あ あ』の主人公、針金の人、について)
「針金の人」には名前はありません(~)
針金の人は「『存在』の象徴」であり、キャラクター性とは対局にあります
「そこに在ること」「何かに出会い、それゆえの振る舞い」それを描くための「なんでもないものの象徴」です
ゆえに顔も無く、最小限な要素で成り立ち、でも「そこに居る」ように感じられる
何物でもない、だから何者にもなれる、そういう存在です
(~)
わたしはいつも、物とじっと向き合い、その物の発する声をうかがう、ということをします
(それは自分を宙に浮かぶ一点とすると、全方向からうったえかけてくる可能性へと
感覚を開く状態)
すると「その物が何者か」という以前の、「その物であるがゆえの在り方」へと焦点が導かれるのです
そしてその向こうには「その『物』をつくった、必要だった、人間」という生命の
脈々と続いてきた永い”とき”を感じられ、どこか尊い気持ちにもなり、
また、人間がいじらしくも感じられてくるのです
(~)
『あ』では針金の人が「物と読者のあいだの媒介者」でしたが
『あ あ』では「物」が「針金の人と針金の人の出会い」の媒介者となっています
(大槻あかね)
このような基本のスタンスの中で創作される気持ちのもとには、大切ないただいたことばへのことばではない表現でのお返事、こころにひそんでいる好きな歌のことば、春琴抄の舞台など、が具体的な表現に関わっているということなど、わかりやすい動作もまじえながら伝えて下さいました。
みなさんは針金の人がポリ袋のパラシュートにつかまって風に揺れている下で、こころの興奮を抱きながらききいっておられました。
わたしが聞きながら思い出していたのは、本田和子さんという方の子ども文化論の一節でした。
「遊びは、ただその内在的な目的によってのみ規定され、他の目的設定によって導かれることの無い唯一の自己完結的行為である。それゆえに、そこでは、時間は『引き裂かれる物、ながれゆくもの』という性格を失う。人は遊びにおいてはじめて、現在に滞在し、永遠に手をさしのべる機会をもつのである。」
「創造する詩人の想いは深く純粋であるために詩人自らも気づかぬまま、幼い時代の夢想を再び見いだしているのである。そしてこれは、『大人とよばれる人』の内に、『人の原型としての子ども』が潜んでいることのあかしである」
(以上ホイジンガー『ホモ・ルーデンス』およびバシュラール『大地と意志の夢想』より)