昨日11月9日は「秋野亥左牟展」のトーク会。奥様の和子さんが兵庫県の上郡から、はるばる「飛ぶ魚」にいらしてくださいました。和子さんはカナダのバンクーバーでイサムさんと出会い、その後インドで一年間暮らされて、それから沖縄の八重山諸島の島、小浜島へ。四人のお子さんを育て、イサムさんは海に潜ってタコとりをしながら、4冊の絵本を仕上げられました。最後の一冊「たかなんかじゃないよ」を仕上げられたのは、16年間の小浜での暮らしを終えて、広島の福山市に移られたからでした。沖縄から離れても、部屋にタコの絵がずらりとあるので、まるで沖縄にいるようだった。イサムの残した文章に「タコの時は和子と喧嘩しないで仕上げることができた」と書かれていた、と和子さんは笑ってらっしゃいました。私の記憶でもあの絵本はとても楽しくスラスラとできた絵本でした。それでも、三年くらいはかかりましたが。
インドを一緒に旅された時、和子さんが重い病気になり生死をさまよう感じになった時、イサムさんは濡れたシーツをかぶせたり、医者に連れてってくれたりして、とてもよく看病してくれたこと、でもその後、もう一緒にやっていけない、と和子さんは思って島を出ようとしたら鼻が欠航、やむなくまた戻ったこともあった、簡単によそへ行かない島暮らしだったことが幸いしたこともあったように思う、と言われていました。イサムさんはよく散歩され、風のようだった、と。
会場にいた、イサムさんと仕事をさせていただいた、私も含めて、三人の人が、それぞれ、自分の担当しようとした(実現しなかったことも含めて)、または担当した絵本とイサムさんの思い出、小浜でのサバイバルな暮らしのことなど、途中でお話。外のトイレ、五右衛門風呂、美味しいタコのことなど。漁師の部落は荒っぽく喧嘩っ早いので結構殴り合いになったりすることもあった。そんな時、いつもイサムさんの前に立つ友だちがいた。どうしたかと聞くと、イサムは絵描きだから、彼の右手を守らなくちゃあだからだと答えたということ。その彼とイサムさんはほんとの親友だったけど、その彼は漁に出たまま帰らぬ人になってしまったということです。
仕事の時、イサムさんは、とことん考えられ、万物の命はめぐるという世界観に基づいて、何を表現すればいいのかを突き詰めて考えられていから、さまざまな疑問をぷつけられる中でご自分の考えを固めていかれた。そして納得がいかれるとか、丁寧に丁寧に、こつこつと絵を描かれていた。絵本の時は、子どもが読むものなので、とても気を使いながら描く。タプローの時はもっと気楽、といわれていたそうです。
沖縄で秋野さんと仲間が自分たちのでで建てられた家はとても良くて、暮らしは楽しかった、と、和子さんは穏やかで、そのまんまの姿で語ってくださいました。
夕方の夕食会の時に、飛ぶ魚から、真鶴の花火が綺麗に見えて、予期せぬ素敵な夜空をみんなで見上げました。そのあと、三線を持って参加してくださった岡田和枝さんが、三線の音色と胸に迫る歌声でたくさん歌ってくださいました。小浜の歌も練習してきてくださって、先ほどお聞きした小浜の暮らしに想いを重ねながら聞き入りました。